2006年 09月 15日
子供は放っておいても育つのだろうか? |
親は無くとも子は育つというのは、どういうことなのかな、と考えることがある。物理的には育つだろう。栄養さえ与えれば。そういう問題ではない部分が気になる。
最近、漸く日本がフィリピンの労働力受け入れに対し小規模ながら扉を開いた。それは、基本的に良いことだと思う。国を超えて資源の有効活用をし、競争力を得ることは国際間の競争に晒される以上不可欠と思うから。但し、このことは真剣に考えるべき色々な問題を含んでいると僕は思っている。
その一つが、お手伝いさんにどこまで子供を預けるのか、というもの。無論、日本に居る時にはこんな問題は全く身近ではなかったが、香港では卑近な問題である。我が家には、当初フィリピン人、現在は香港人のお手伝いさんに週3日、3時間だけ来てもらっている。我が家を含め周辺には多くのケースが転がっている環境に於いて、僕の目には必ずしも育児そのものにお手伝いさんが参加することは、望ましくないのではないかと思える残念な現象を目の当たりにしている。
多くのケースでは(というか、香港では法律上そう定められているのだが)、”アマさん"と呼ばれる、お手伝いさんは住み込みとなる。1畳にも満たないのではないかと思われる部屋にトイレがありその便座の上にシャワーが備え付けられたアマ部屋というのが、香港のアパートメントには一般的に備わっている。初めて物件を巡った時には、その狭さゆえ、驚いたものだ。本当に狭く、そこに人権的なものは感じなかった。
本題に戻るが、そのアマさんに子供の世話をどこまで見せるのか、という問いである。我が家の場合は、Part timeであり、その全てを見させたとしても知れていると言えば知れている。が、標準装備の住み込みの場合はどうだろうか。24時間体制である。親は一切の面倒を見ることなく、子供を”大きくする”ことができる。
極端に言うと、こういうことが言いたい。子育てに於ける嫌な部分は全てアマさんに任せ、楽しい部分だけ味わうことが出来る。外国人労働力を受け入れ、お手伝いさんを受け入れると言うことは、そういう環境を安価で手に入れることが出来る社会が出来上がると言うことである。
その時に何が起こるのだろうか。
僕が仕事でよく行くフィリピンでは、お金持ちの家庭では、子供一人につき最低1名、場合によっては複数のお手伝いさんが付く。彼女達が朝から夜寝るその瞬間まで専属で面倒を見ている。お手伝いさんであり、彼女達は育児教育・幼児教育のプロではない。あやすことが出来る、食事を与えることが出来る、オムツを帰ることが出来る、それを仕事とするお手伝いさんが、相当程度の年齢になるまで面倒を見るわけだ。親は、お休みのキスをするだけかもしれない(よくそういう光景を目にするわけだが。。)。
親しいフィリピン人にその弊害に付いて聞いたことがある。彼女は高い教育を受け国家資格を持つCPAで、3人の子供が居る。元々裕福だったこともあるが、仕事の都合もあり2人目以降の子供は完全にお手伝いさんに預けて育てた。大学生・高校生になる3人の子供を見ると、その成長速度や質の違いに愕然とすることがあるという。勿論、原因はお手伝いさんに育児の全てを任せたからだけではないだろう。しかし、少なくとも彼女はそこに原因を見ているし、そうしたことを後悔している。
フィリピン人の多くは、自らもそうしてお手伝いさんに育てられることが多く、むしろ一般的なことでもある。その彼女達をして、そう思わしめる。彼女達はお手伝いさんの使い分け方にさえ通じていて、どこは任せて、どこは任せないと言う事にも通じているはずである。加えて、同じ文化を背景とした人間をお手伝いさんとしているので前提とする認識水準は、基本的に大きな差異はない。コミュニケーションにおける問題はさほどない。
日本に照らしてみた場合は、どうなるだろうか。日本人は、そもそも使用人を使うことに歴史的に慣れているだろうか?使用者と使用人として狭い部屋の中で毅然と振舞うことが出来るだろうか?閉鎖的な島国で育った若い女性が、遠く離れた小島からやってきたタフな女性達を英語でしかりとばせるだろうか?村社会で育ち、家のものは共有のものと思い無許可で使ってしまうかもしれないが、それを受け止められるだろうか?彼女達は子供が泣き止むためには好きなテレビを何時間でも見せ、甘いものを与えるかもしれないが理解しているだろうか?そして、彼女達をして子供を”育児”させることが出来るのだろうか?
子供は放っておいても大きくなるかもしれない。が、育てること、情緒を育むことは放っておいては出来ない。お手伝いさんを受け入れる社会を構築するためには、そのあたりの理解をより深く追求する必要がある。見えない成果は、30年、40年後の社会に現れる。そしてその頃には取り返すことがとても難しい類の性質である。その性質こそが社会の根底を構築するものであることを考えると、正直、僕は少し怖い。
社会に与えるインパクトを十分認識した上でのソフト面の充実は容易ではない。
最近、漸く日本がフィリピンの労働力受け入れに対し小規模ながら扉を開いた。それは、基本的に良いことだと思う。国を超えて資源の有効活用をし、競争力を得ることは国際間の競争に晒される以上不可欠と思うから。但し、このことは真剣に考えるべき色々な問題を含んでいると僕は思っている。
その一つが、お手伝いさんにどこまで子供を預けるのか、というもの。無論、日本に居る時にはこんな問題は全く身近ではなかったが、香港では卑近な問題である。我が家には、当初フィリピン人、現在は香港人のお手伝いさんに週3日、3時間だけ来てもらっている。我が家を含め周辺には多くのケースが転がっている環境に於いて、僕の目には必ずしも育児そのものにお手伝いさんが参加することは、望ましくないのではないかと思える残念な現象を目の当たりにしている。
多くのケースでは(というか、香港では法律上そう定められているのだが)、”アマさん"と呼ばれる、お手伝いさんは住み込みとなる。1畳にも満たないのではないかと思われる部屋にトイレがありその便座の上にシャワーが備え付けられたアマ部屋というのが、香港のアパートメントには一般的に備わっている。初めて物件を巡った時には、その狭さゆえ、驚いたものだ。本当に狭く、そこに人権的なものは感じなかった。
本題に戻るが、そのアマさんに子供の世話をどこまで見せるのか、という問いである。我が家の場合は、Part timeであり、その全てを見させたとしても知れていると言えば知れている。が、標準装備の住み込みの場合はどうだろうか。24時間体制である。親は一切の面倒を見ることなく、子供を”大きくする”ことができる。
極端に言うと、こういうことが言いたい。子育てに於ける嫌な部分は全てアマさんに任せ、楽しい部分だけ味わうことが出来る。外国人労働力を受け入れ、お手伝いさんを受け入れると言うことは、そういう環境を安価で手に入れることが出来る社会が出来上がると言うことである。
その時に何が起こるのだろうか。
僕が仕事でよく行くフィリピンでは、お金持ちの家庭では、子供一人につき最低1名、場合によっては複数のお手伝いさんが付く。彼女達が朝から夜寝るその瞬間まで専属で面倒を見ている。お手伝いさんであり、彼女達は育児教育・幼児教育のプロではない。あやすことが出来る、食事を与えることが出来る、オムツを帰ることが出来る、それを仕事とするお手伝いさんが、相当程度の年齢になるまで面倒を見るわけだ。親は、お休みのキスをするだけかもしれない(よくそういう光景を目にするわけだが。。)。
親しいフィリピン人にその弊害に付いて聞いたことがある。彼女は高い教育を受け国家資格を持つCPAで、3人の子供が居る。元々裕福だったこともあるが、仕事の都合もあり2人目以降の子供は完全にお手伝いさんに預けて育てた。大学生・高校生になる3人の子供を見ると、その成長速度や質の違いに愕然とすることがあるという。勿論、原因はお手伝いさんに育児の全てを任せたからだけではないだろう。しかし、少なくとも彼女はそこに原因を見ているし、そうしたことを後悔している。
フィリピン人の多くは、自らもそうしてお手伝いさんに育てられることが多く、むしろ一般的なことでもある。その彼女達をして、そう思わしめる。彼女達はお手伝いさんの使い分け方にさえ通じていて、どこは任せて、どこは任せないと言う事にも通じているはずである。加えて、同じ文化を背景とした人間をお手伝いさんとしているので前提とする認識水準は、基本的に大きな差異はない。コミュニケーションにおける問題はさほどない。
日本に照らしてみた場合は、どうなるだろうか。日本人は、そもそも使用人を使うことに歴史的に慣れているだろうか?使用者と使用人として狭い部屋の中で毅然と振舞うことが出来るだろうか?閉鎖的な島国で育った若い女性が、遠く離れた小島からやってきたタフな女性達を英語でしかりとばせるだろうか?村社会で育ち、家のものは共有のものと思い無許可で使ってしまうかもしれないが、それを受け止められるだろうか?彼女達は子供が泣き止むためには好きなテレビを何時間でも見せ、甘いものを与えるかもしれないが理解しているだろうか?そして、彼女達をして子供を”育児”させることが出来るのだろうか?
子供は放っておいても大きくなるかもしれない。が、育てること、情緒を育むことは放っておいては出来ない。お手伝いさんを受け入れる社会を構築するためには、そのあたりの理解をより深く追求する必要がある。見えない成果は、30年、40年後の社会に現れる。そしてその頃には取り返すことがとても難しい類の性質である。その性質こそが社会の根底を構築するものであることを考えると、正直、僕は少し怖い。
社会に与えるインパクトを十分認識した上でのソフト面の充実は容易ではない。
by Tomoya_Yasuda
| 2006-09-15 03:43
| LIFE