2005年2月13日、大いなる志、期待、不安、気概、色んなものをパンパンに抱えて香港国際空港に着いた。たった1年10ヶ月ほど前の話。もう、殆ど記憶の欠片すら残っていない。それ程、この1年10ヶ月はぎゅうぎゅうに詰っていた。本当に、ごちゃ混ぜに。
到着した日の午後は早速事務所へ挨拶に行った気がする。事務所とホテルは同じ系列。Miramar Hotelの窓のないかび臭い小部屋に押し込まれた。家が見つかるまでの数週間をそこで過すことになるかと思っただけで、吐きそうだった。
到着翌々日からダバオ出張の予定が入っていた。フィリピンはミンダナオ島の最大の都市ダバオに我々のバナナ農園がある。既に何度も訪れていたが、それ以降、月に最低1回、多い時は2度、3度訪れることとなる。香港‐マニラ2時間、マニラーダバオ1.5時間、マニラ空港での待ち時間4時間。これを避けるため、前日夜中にマニラ入り、朝5時のダバオ行きを利用するということもしばしばあった。これは辛かった。何しろダバオ行きのフィリピン航空は、シャトル便で1日3往復、遅い便に行くほど遅れが酷くなるので、朝1の便が一番確か。香港‐マニラの最終に乗るとマニラに夜中の24時過ぎに到着する。ホテルに1時。チェックアウト3時。そんな感じだ。あほらしいと言って空港で寝る人もいたが、治安上、僕には出来ない芸当だった。
マニラのペニンシュラは、ホテルの部屋がかび臭かった。それでも天井の高いエントランスホールは、好きだった。初めて訪れた時は、ガードマンのライフルに驚いた。受付嬢の愛想の良さにフィリピン人の懐っこさを感じた。Spiceというレストランがお気に入りで、いつもそこのトム・ヤム・クンを食べていた。大好きなBuffetスタイルの朝食にありつけたことは殆ど無い。
マカティの事務所まで移動のためのお迎えの車がジャガーだったことがある。ペニンシュラの前にかっこよく横付けされたまでは良かった。ドライバーが、In Keyし、慌てふためくまでは。
マカティの事務所の下には、スターバックスが入っていた。この国のスタバでは、ライフルを持った警備員が扉を開けてくれる。
事務所には、大好きなロジャーがいつもおなかを空かせて待っていた。朝が早いこともあるだろうか、11時を過ぎたころには、今日の昼飯はどうするか?と頻繁に聞いてくる。お気に入りは、近所にあるマンダリンのBuffet。なかなか大したものだ。ロジャーと行くと、何故だか知らないがここの昼食が只になる。SGVというフィリピン最大の会計事務所で偉くなると、違うものだ。ロジャーという男については、後でまた触れよう。
マニラではアロヨ退陣要求の抗議デモでホテルから出られなくなったこともあった。実際にはのんきなイベントでしかなかったが、事態の全容がわからないだけに、それなりの不安と共に部屋に留まっていた記憶がある。
ダバオは、南国のリゾート地。多くの日系企業が、治安上の理由から出張禁止地域としている地でもある。大いなる誤解で、マカティのほうがよほど治安が悪い。ダバオの治安が良くなった理由は単純。市長が圧制をしいたからに他ならない。携帯電話を盗んだ少年を射殺している。そうやって街を正常化する類の土地である。
バナナ農園には、昔から共産ゲリラが潜んでいる。昔は、フィリピン国軍がバナナ農園を空爆していた。そんな中で品質管理や、ロジスティクスを指導していたのだと。今は、共産ゲリラは多少なりを潜め、代わりに出てきたのがイスラムゲリラ。フィリピンは、敬虔なクリスチャンで知られるが、僅か数%ながらイスラム教信者が存在する。絶対的少数の彼らの生活は、極めて貧しく、その両者間の間にある溝はどうしようもなく深い。
中田もケソンを突撃訪問するなら、ダバオのバナナ農園へ行って欲しかった。緒方貞子は、最近ダバオを訪れている。
大きなラウンジが、執務室の奥の扉の先にある。そこが大会議後の昼飯の場。中南米の70年代の映画を見ているような雰囲気の場所で、そういえばよくこういう場所をゲリラが襲っていたなぁ、と。十分に映画になるような人種の坩堝の空間が出来上がっていた。フィリピン人、中国人、台湾人、アメリカ人、日本人、韓国人、コスタリカ人、イラン人、ニュージーランド人。
棟梁は、アルコールを絶っていた。目の玉が零れ落ちるのではないかというほどのギョロ目の彼の袖口は、異様に発達した筋肉でいつもパンパンだった。強烈なそのキャラクターと考えられない程の深い愛情で、彼は広大なバナナ農園の農家を束ね、率いていた。
農園への道のりはいつも苦痛だった。数時間、舗装されていない道をぶっ飛ばす。日本製の4駆に乗り、まずは市内を抜ける。暫くすると両サイドにバラックしかないような場所に入る。アスファルトに舗装されている道は殆どなく、固められている程度のの道を100kmに近い速度でぶっ飛ばす。道の脇では、子供達が遊んでいる、そういう道を。林道に入るところで、前後に2人乗りのバイクが付く。警備だ。運転手とライフルを抱えた人間のセットで前後を固める。実は、車内のトランクにも一人乗り込んでいる。腰には拳銃が刺さっている。気分の良い生活ではない。
農園での全体会議の1日では、大体5食でる。昼食以外にサンドイッチ、マクドナルド、そういった軽食が10時ごろと15時ごろに。それ以外に果物も出るし、コーラや3 in 1のスティックタイプの甘いコーヒー。滞在期間中は、体重が増えた。
ダバオ滞在期間中は、マルコポーロホテルと決っていた。このホテルが無ければダバオステイはなかなか精神的に苦しいものがあったかもしれない。
ダバオから戻ると、次の出張のスケジュール組みが始まる生活だった。平均すれば、月1回ダバオ、1回マニラ、そしてその他のどこかへ1回。Cathay Pacificのマイルのグレードは一気に上がり、パスポートは直ぐに分厚くなった。
着任早々、歓迎会に出席することも出来ず出張を続けていた。Miramar Hotelの臭い部屋に居るよりはましだったが、家族が来るまでの約1ヶ月半に生活基盤も築いておかねばならなかった。因みに、部屋はKowloon Hotelへ移してもらった。
香港で始めての買い物はスニーカーだった。New Balanceの1600。大好きなベストセラーだ。New Balanceは、足に合うのか、学生時代から何度と無く履き潰すまで履いた靴。香港生活の始まりもここからだった。
兎に角歩いた。住居探しで一日に10件を軽く超える物件を見た。死ぬほどくたばっていた。Discovery Bayというフェリーで30分のところのリゾートアイランドのようなところにも探しに行った。人工の巨大レジデンスエリアで、香港の喧騒が嫌な人向け。かなり惹かれる物件が2,3あったのだが、香港に来て香港らしさから離れても仕方なかろうということでやめた。
辿り着いたのは、StarCrest。AdmiraltyとWanchaiの間という立地は、他に無い便の良い場所だった。建物はSwire Groupのもので他のMid Levelsのものに比し、作りがしっかりしている印象があった。勿論budgetがあるので、それが無ければよいところはある。狭かったが、高い天井と山側に面した大きな窓のお陰で、何とかその息苦しさをやわらげてくれた。これほど大きな窓を持つ部屋に住むことは、今後もなかなか無いかもしれない。午後の日差しはいつも温かく、とても綺麗だった。
オフィスはTim Sha TsuiのMiramar Towerの中。ここはショッピングモールの上にオフィスビルが入った建物。曰く、後から継ぎ足されたそうだ。建物が継ぎ足される国だ。
最上階の景色の良い大きな事務所だった。将来構想があったためだが、結局その半分も埋まらない間に、シンガポールへの移転を決めた。恐らく僕の勤める商社の中でもこれほどまでに機動的に動いたケースはなかなか無いだろう。フットワークが軽いといえば聞こえが良いが、落ち着きが無いというレッテルも直ぐ貼られることになる。
事務所に最初に付いた時には、一足先に派遣された日本人社長が1名。現地スタッフが6名居た。会社は2つ。大きな事務所の空間を生かしきれず、片隅によって生活していた。まだ立上げたばかりでオペレーションも安定せず、ルールも無く、夫々が過去のキャリアに於いてやっていた方法で、勝手に目の前の課題を処理していた。仕事が全く無い人間も居た。Tiffanyである。Internal Auditorとしてグループ企業を飛び回り、監査業務をやるというjob descriptionで雇用されている彼女には、まだ仕事が無かった。
僕が着任するまでの約4ヶ月間、彼女はWebを眺めて暮らしていた。僕にとっては見っけもんだった。僕の目の前の座席に座り、全く口を開かないおとなしい女性だった。やたらとつっけんどんな感じがある一方で、実際にはナイーブな最年少だった。公認会計士資格を持つ彼女を自由に使うことが出来た。台湾、韓国、フィリピン、あちこちにつれて回り、あらゆる経験をさせた。マンダリンも話せるので、台湾では特に重宝した。そんな彼女も今は妊婦である。来年4月には子供が生まれる。オフィスの最後のその日まで、彼女には居てもらうことにしている。結局、最初から最後まで、彼女だった。
着任早々、オフィス内のまずい空気を感じた。1名の日本語が話せる経理managerが、他とそりが合わない感じだった。特異なタイプだったこともあり、1ヶ月後には退職の運びとなった。初めて事実上、解雇する仕事だった。
オフィス内の雰囲気は改善したが、そのポジションは鬼門だった。僅か半年に3名がその席にトライし、辞めて行った。1ヶ月待って1週間だけの人間も居た。香港の職業観を身をもって理解した。何の経験もない人間が、採用活動をやっていた。履歴書を読み漁り、面接をしていた。何の経験も無いのに100億を軽く超える金額の投資活動の経理責任者を。
オフィス天井の電球がよく切れた。いつもそれは、僕の仕事だった。男性が他に居なかったから。
オフィスからの景色は綺麗だった。ビクトリアハーバーの水面に移る光は、いつも本当に心を和ませてくれた。行き来する船の数にはいつも圧倒された。日に日に悪化する空気汚染の度合いも、そこからは一目瞭然だった。出張者も、その汚染振りに目を見張っていた。
事務所の下にあるスタバには、ほぼ毎日世話になった。行くだけで、勝手に品物を作ってくれた。『今日は違うよ。』なんていうと、『really??』なんていって、おどけてみせる愛嬌のあるスタッフたちだった。本当に良く通った。
昼食は、いつも"元気一杯”だった。正直、飽きた。チキン南蛮、チキンカレーがお気に入りだった。最早、何を食べても同じ味がするような気分になっていた。それでも、毎日和食を味わえることには感謝していた。これが毎日中華だったら、結構きつかっただろう。といっても出張生活の人間にとって、昼飯は空港か機内食が精々だった。
そんなことをやっている内に、我が家の女性陣は、着々と香港での基盤を拡大していた。そのことを知ったのは、つい先日の送別会に於いて。娘の成長に従い、Play Groupに参加するようになったことが一つ。それ以外に、料理、お花、テニス、ヨガ、ゴルフ、お茶、ランチ、ありとあらゆるものに真剣に取り組んでいたことが、結果、あの巨大なネットワークに繫がったのだろう。
週末の殆どが出張の行き帰りにぶつかっていた。そうでない時は、家族でビーチへよく行った。Shek O、Pui O、Repulse Bay、Big Wave Beach、いろんなビーチが香港にはある。暑くなりすぎる前の朝からビーチへ行き、昼飯をタイ料理屋さんや、ピザ屋さんで済ませて家に戻り、娘は昼寝。午後はCentralのIFCや、Causeway BayのCity Superでお買い物。そんな感じだった。始めの頃はよくOliver'sでも買い物した。Oliver'sでかったNZ産のGrass Fedのrib eyeがとても美味しかった記憶がある。
香港は、果物も豊富で安かった。勿論、フィリピン・タイ・マレーシア・メインランドからの輸入物ばかりだが、どれもとても安く、とても美味しかった。それでもやはり、フィリピン産のものが一番美味しかった気がする。甘みが濃かった。好物は、マンゴー、パパイヤ、それにポメロだった。
週末の会話は、『昼飯何食べる?』、『晩飯、どこへ行く?』。全ては食事が中心だった。食事の予定から逆算して一日の日程が決った。それほど、食べるものに恵まれていた。何より和食が簡単に手に入る外国なんてそんなに無い。美味しいレストランがこれほど身近にある街もなかなか無い。大騒ぎする子供を連れて行っても、そこが高級ホテルのレストランであっても、殆ど問題が無い。大人二人で食事がしたければ、お手伝いさんをアレンジすることが出来る。23時まで食事が掛かったとしても23時15分にはパジャマに着替えて歯磨きが出来る。食べることを中心に於いて街が設計されてるのではないかと思うほど、食事が中心にある。確かに、中華圏に於いて食卓を囲んでの時間、会話は非常に重要だった。そのことを知らず知らずの間に体感し、習慣にしていた。家族揃って食卓を囲み、時間をかけてわいわいと食事をする生活。これは、死ぬまで続けて行きたい。そんな当たり前だけど、すばらしい習慣を身に着けることができた。
Yung Kee、One Harbor Rad、Spring moon、Lee garden、Farm House、天香楼、Dynasty、東海、Victoria Seafood、Dong、小南国、西貢、北京楼、Shangri-la、 Mandarin Oriental、 Four Seasons、 Cuisine Cuisine、 Jade Garden、名都、Civic holl、Zen、Dim Sum、福臨門、満記、Moon Cake、Cine Citta、Spoon、1/5、Peninsula、Gaddis、Harlans、Thai、Indian、、、、、
Pacific placeが散歩の常道だった。そこからHong Kong Parkへ抜け、坂道をえっちらおっちら上ると子供の遊具が沢山ある。ベビーカーを押しながら上ると、着いたころには娘は寝ていた。
日曜日は、町中にアマさんが溢れかえっていた。足の踏み場も無いほどに。HSBCの下は、メッカだった。
来た当時は、訪れる場所を知らず、徒にブランドショップをふらついたりLane Crowfordをふらついたりしていた。ずいぶん無駄遣いした。友人が出来ると、週末はそれどころではなくなった。BBQやったり、ビーチ行ったり、海鮮食べに南Y島へ渡ったり。
南Y島の馴染みのお店では、ビールが飲み放題、只だった。”パクチョッハ(湯で海老)”が何よりも美味しかった。巨大な車庫に驚いた。色んな貝を食べた。Garoupaの醤油ベースのソースと上に載る葱で白いご飯を食べるのが何よりのご馳走だった。ミル貝の刺身も美味かった。ロブスター入りチーズ麺も美味しかった。
香港空港はすばらしかった。空港までのエアポートエクスプレスも快適だった。12分に1本の間隔でCentralから25分。Centralの駅でチェックインが出来るので楽ちんだった。朝は、よく1時間半前のCheck Inぎりぎりで文句を言われた。
香港の旅行代理店はさっぱり駄目だった。座席のアレンジも出来ないし、機体の情報もいい加減、とりあえずその場を繕えばよいというのが彼らのやり方だった。これは香港全体にいえる。
Cathayの空港ラウンジはすごかった。お決まりの如く、カウンターでハーゲンダッツのストロベリーアイスクリームと、アイスカプチーノを頼んだ。アイスカプチーノなんてちょっとしたこじゃれた飲み物に仕上がって出てきた。坦々麺も悪くなかった。何より感動は、シャワールームだった。Aucklandまでの夜行便の前には、いつもゆっくりとシャワーを浴びてから飛行機に乗った。それでも小さき機体で長いフライトだった。
Cathayには世話になった。No.1エアラインとかやたら誇りにしてるが、サービスが良いからではないだろう。ご時勢が彼らを支えているだけだと思う。まあ日系の航空会社がオファーする不必要に贅沢な面倒なほどの歓待や、米国系の無愛想さに比べると、丁度よい按配のサービスなのかもしれない。香港・成田間のアイスクリームは、楽しみでもあった。成田の第一ターミナルは頂けなかった。
香港・シンガポール、空港を比べると、日本はアジアの中でさえ最低レベルに位置している。どれだけ多くの人がそのことに気がついているだろうか?どれだけ多くの人が、そのことを恥だと思っているだろうか?
東京が、国際的な都市ではないことに気がついた。
4,5月の香港は湿気が酷く、家には3台もの除湿機が必要だった。その全てが、1年365日、ほぼフル稼働だった。洗濯物は乾かなかったが、アーペンさんが、アイロンがけしてくれた。
あーペンさんは、香港での最高の出会いの一つ。我が家のお手伝いさん。通常のお手伝いさんは、フィリピン人なのだが、我が家は人伝の紹介で、香港人の彼女を週3回、3時間雇った。既に60歳を過ぎていた。家の娘との相性は抜群で、父親の帰宅よりもあーペンさんの登場を、彼女はいつも心待ちにしていた。両親が夫婦で食事がしたければ、あーペンさんに夜、来てもらった。娘の日本語は、彼女の日本語とほぼ同じレベルにまで近づいてきた。
あーペンさんを紹介してくれた女性の紹介で娘と家内は生涯の友を香港で見つけることになった。ヨッチとユージンである。ご主人は、先日来ブログにも登場するジョン君だ。ここの家族には、親切だけでは片付かない愛情を注いで頂いた。ユージンは娘の3ヶ月お兄さん。だが、そのサイズは既に馬鹿でかい。両親が大きいので驚きは無いが、運動能力の発達振りといい、物凄い。2歳の夏に既に、プールサイドから飛び込み、顔をつけたままバタ足で数メートル泳いでいる。このユージンと家の娘の相性が初めて会ったその日から、なのである。1歳になるかならないかの当時から。自然、親同士も近くなる。ヨッチもジョン君も我々より少し年齢的に上なこともあり、妹・弟夫婦といった具体で可愛がってくれた。彼ら抜きの香港生活は、恐らく全く違ったものになっていた。
香港では、MTRを待っている時に、出入り口の前を開けて少し脇に並んで待っていると、そのあいている正面に人の列が自然と出来上がる。
エレベータも同じ。メインランドほどではないが、自身が邪魔になる入り口付近に立っていても、そこをどく意識は無い。昼食時は、下に下りるエレベータが混雑するので、上下両方のボタンを押して待ち、上層階行きでもそのエレベータに皆乗り込んで、一旦上まで行く。お陰さまで、ランチ時の下行きの流れとは何の関係もないエレベータに乗っていても、何故か誰も乗らない各階全てに止ることになる。エレベータはストレスとなった。
エスカレータは、右側に立ち、左側が急いでいる人用。大阪と同じだった。
ハッカクの臭いが町中に充満していた。夏の暑い日は、猛烈な排気ガスに加えてこの臭いが漂ってくる。噎せ返る空気を吸い込まざるを得なかった。若干、値のはるレストランとそうでないLocalのレストランの最大の違いが、ハッカクだった。値の張るほうは、ハッカクを殆ど使わない。Localは、その逆だった。
足裏マッサージに週に2回通っていた。自宅前にマッサージ屋さんがあった頃は。無くなってからは、行かなくなった。マッサージというものを理解しない人間だったが、足裏マッサージには嵌った。いつも痛かったのは、sinusとbladderの部分。痛いなんてもんじゃない。
香港とは何の関係もないが、北海道の占い師さんに電話で相談したこともあった。2006年は、人生で最悪の年らしかった。なるほど思い当たる節が沢山あった。特に念の前半は要注意とのことで、嫁が風水のお守りを買って来てくれた。豚だった。何やら足まわりに大病するといわれていた。来年以降はうんきがぐっと上がると言われた。やりたいことをサポートしてくれる人達が集まるとも言われた。行き先はドイツの方面、自然に携わるような、温かい感じの方面に進まれたらよいのではないかと言われた。不思議なことに、スイスはドイツのお隣、大半はドイツ語を話す国だ。更に、ジョン君をはじめ、多くの先輩が色々とアドバイスをくれ、人を紹介してくれ、力を貸してくれている。後は、ただひたすら、運気が上がる一方の人生を楽しませて頂く。
タクシーに良く乗った。HKD15の初乗りで、どんなに言っても島の中なら200ドル台。空港までいっても350ドルぐらい。普通100ドルを超えることは無かった。タクシー代が安い上に、狭いのでそういうことだった。Peakに上がる時は、若干、車に酔いそうだった。
ピークのカフェでの週末のブランチは、心地が良かった。友人家族と集まって、屋外のテラス席での朝食は、香港とは思えない心地の良いものだった。あそこのデザートは、予想外に手がこっていて、めちゃくちゃ美味しかった。
ブランチといえば、Stanleyのビーチ沿いのカフェは外国だった。Repuls Bayもそうだが、あの変には、白人が沢山住んでいて、なかば欧州の素敵な海岸沿いリゾートにお住まいって感じだった。僕の中では、アジアのアマルフィ海岸と呼んでいた。
スターフェリーが、香港といわれるもので、何よりも好きだった。僅か数分のビクトリアハーバーを渡る船旅だが、これこそが香港の全てを凝縮している気がした。いつそれ乗船しても、とてもとても気持ちが良かった。何故か、何か大きなもの、遠いものを髣髴とさせる雰囲気がその船旅にはあった。香港島の近代ビルディングの景色を、未だにオイルの臭いが充満する、白と緑でぬりったくられ、足元は年季の入った木製の船から眺める、潮風が心地よくふいていた。船員のおじさん達は、濃紺のセーラー服を着ていた。フェリーが2階建てだったことに気がつくのには時間が掛からなかったが、1階に乗るまでには時間が掛かった。入り口がわからなかった。
香港を訪れた全ての人に、スターフェリーを経験して欲しい。
出来ることならば、晴れた日中に一度、夕暮れ時に一度、そして夜のライトアップした後にもう一度。何度のっても、そこには”郷愁”というその言葉を体言する空間が用意されている。大人のamusement park。
Felixは、思い出の場所だ。1995年。大学生の時に香港を訪れた時に地元の人に連れて来て貰い、『仕事で、またこの土地を訪れたら、また必ずここへ来よう。そういう国際人になれる仕事に就こう。』そう誓った場所だ。そこに居るスノッビーな白人や、それに混じって流暢な英語で話しているアジア人を見て、インターナショナルのビジネスマン達を初めて体験した興奮に触発された。丁度、それから10年後、まさか本当にそんなことになるとは思っていなかった。香港は大きく変っていたが、Felixは、当時のままだった。自分の中身も、あんまり変っていなかった気がする。同じような願掛けを、今回するとしたら、何にしようか。辞めておこうっと。
マンダリンオリエンタル、フォーシーズン、ペニンシュラ、インターコンチネンタル、グランドハイヤット、コンラッド、JWマリオット、シャングリラ、そうそうたる超一流ホテルを日常的に利用していた。そんなことを日本や、他の国でやっていたら、間違いなく今頃破産して居ただろう。分不相応にも程があるが、お陰さまでよいものを見ることが出来た。上には上があることを知ることは、基本的には良いことだ。もっともっと上を目指そう。
GaddisとOne Harbor Roadでは、シェフズグリルを楽しんだ。厨房で味わう食事は、これまた大人のエンターテイメントとして楽しいものだった。
香港のディズニーランドは、小さかったが、幼児を抱える身としては、適度なサイズで便利だった。中国人は、幼少期からミッキーマウスに慣れ親しんでいなかったため、客足は芳しくなかった。未だに、Ocean Parkのほうが、皆面白いと思っている。キャラクターやアトラクションの背景にある本当のストーリーを理解していないと、面白さは半減どころではない。何となく、ディズニーに限らず、”背景のストーリーを理解しない”、ということがとてもよく当てはまる土地だな、と思ってしまった。
香港人は、白人にはめっぽう弱かった。列に並ばない白人であっても、強引に主張されるとそれに耳を傾けてしまっていた。アジア人が何をやろうが、同じことは起きなかった。そんなことを身ながら、植民地ってのは、そういうことかと短絡的に思ったことが良くあった。そして、それを判ってやっている白人がどれだけ多いことか。人としての品格は、目には見えないが大切にメンテナンスしないといとも簡単に失われることを理解した。何を言われようと、美しい国民でありたいと思った。
(まだまだ続ける。)